石川淳「文章の内容と形式」
「文学大概」より。石川淳の、論理的、明晰な側面はあまり語られない。しかしこの散文は実に明晰である。
1 書かれたことばのはたらき
書き言葉は、外的な諸条件の抵抗を受け、それによって鍛えられる。例えば、文章は普遍へと向かうものであるが、国語の特殊性は、それに徹することでむしろ普遍性へと通ずる道である(加藤周一が似た事を書いている。石川の影響か)。書かれる言葉は、精神による。その精神と条件との格闘の跡が、文章の形式である。
2 文章を殺すもの生かすもの
「文章は一回的にしか書くことができない」。時代が下るにつれ、(理性ではなく)生理による調子に支えられた型のみが残り、精神も言葉も死ぬ。重要なのは頭(精神)であって技術ではない。生理-型-調子-技術←→精神-理性-一回性。言葉自体の運動から生ずるリズムを、心理から狙ってはならない。文章を生かすものは、一つ調子に繋がれることでなく、変化と柔軟である。
3 文章の美について
一般にいう「内容」とは意識された内容のことである。しかしいくら「内容」が良くても、それだけでは貧弱な文章でしかない。書かれた言葉はそれ自体の運動を起こす。文章の世界自体がもつレアリテである。即ち意識されざる内容。
それだけで出来ている文章こそが理想である。「内容」の代わりに精神が来る。そのとき、文章の内容とは精神の努力の量であり、形式とはその努力の言葉における作用である。内容と形式の合一?それは、美そのものである。